法華七福神
茂原法華七福神を歩いて廻りました。約5時間の散歩でした。
七福神はみんな比較的新しい石像でした。弁天様だけ石像が見つかりませんでした。
少し離れた場所にある布袋さんだけは翌日車で行きました。
七福神はみんな比較的新しい石像でした。弁天様だけ石像が見つかりませんでした。
少し離れた場所にある布袋さんだけは翌日車で行きました。
11:23 高師八幡神社
毘沙門天のある實相寺の隣にある高師八幡神社にお参りしました。
11:24 實相寺
實相寺 毘沙門天
11:44 茂原公園
橋の中央が弁天堂です。
11:47 藻原寺弁天堂(弁財天)
茂原公園の中にあります。
11:54 藻原寺
藻原寺
日蓮上人の銅像。
頭だけです。ゆくゆくは胴体も作って藻原山上に建立する予定だそうです。今は駐車場の片隅に鎮座しています。
藻原寺
12:01 東光院
東光院 福禄寿
新しい像でした。
12:06 妙弘寺
妙弘寺 大黒天
12:15 鷲山寺
七福神はありませんが、そばにあった鷲山寺に寄りました。
鷲山寺
長い階段がありました。
鷲山寺
階段を登ってみたものの鐘楼があるだけでした。
鷲山寺 仮本堂
もともと本堂は階段の上に建っていたそうです。火事で焼けてしまって、今は階段下に仮本堂が立っています。
もうすぐ、階段の上に本堂が再建されるそうです。
茂原法華七福神の看板
途中、ミニストップのイートインで昼食をとりました。
14:06 妙楽寺
妙楽寺
妙楽寺には徳富蘆花と縁のあるお馨(けい)さんのお墓もあります。
妙楽寺 恵比寿
14:37 妙源寺
妙源寺 寿老人
妙源寺
信行寺
翌日車で訪問しました。
信行寺 布袋尊
【説明文】
茂原弁財天縁起
茂原公園は、昭和十年(1935年)四4月、横堀順次郎氏の提案により、茂原町民の行楽と日蓮門下お題目の霊場・本山藻原寺を顕彰して一大観光地たらしめんとする目的をもって、時の町長・鈴木オ次氏、助役・白井利市氏の賛同を得、藻原寺第七十八世祥雲山日我聖人の代に開園しました。
翌十一年(1936年)には、池の中央部に大小二つの島を造りました。その頃、藻原寺では大学の大改修と山門の建設が行なわれており、その廃材をもって公園の大島へ橋を架け、小島の方には、華経殿奥の院を移築し藻原弁財天として奉祀し、昭和十二年(1937年)四月、藻原寺第七十九世春日日隆聖人により、弁財天開堂の式典が行なわれました。
その後、島も弁天堂も荒廃してしまいましたが、茂原町(市)民の努力によって復典をとげ、昭和四十年(1965年)四月には、コンクリートの永久橋が完成し、平成二年(1990年)四月には、弁天堂を新築し落慶法要が営まれ、茂原市民に崇敬 されました。
しかし、その御堂も平成八年(1996年)12月28日早朝、放火によりご本尊もろとも消失してしまいました。しかしながら茂原市観光協会(当時の会長渡辺豊氏)の努力によって再建し、平成九年(1997年)四月五日藻原寺第九十一世山田日等聖人によって落慶式典が執り行なわれました。
弁財天とは、元来インドの河神で音楽、知恵、財物の神として吉祥天と共に広く 信仰された神でありました。
日本では、鎌倉時代より手に琵琶を持つ像が一般化し、七福神の一神として広く 民衆の信仰を集めてきました。
ことに近江の琵琶湖上に浮かぶ竹生島の弁財天(日本三弁財天の一つ)は、八本の手に各種の武具(弓、矢、刀、矛、、長枠、鉄輪、投げ縄)を持つ像で、その像容は戦神としての姿が強調されているが、霊験あらたかな神として人々から信仰され、近江商人の間にも富をもたらす神として、お祀りされております。
くしき良縁により、その竹生島の弁財天(第四十五代聖武天皇勅命)と同形のご神体を、霊夢山見塔寺(琵琶湖中の多景島)様より授与され、茂原市の振興発展を 新って、薬原弁天堂に奉祀されております。
平成二十四年二月吉日
弁財天運営協議会 会長 田中 義之
日蓮大聖人大銅像 建立資金勸募中
日蓮大聖人の全体像は二十米です
藻原山上に建立する予定です
十ニ米の台座の建立資金不足のため 取敢えず お顔を安置いたしました
早く大聖人の勇姿を拝めますよう ご支援をお願いいたします
ご寄付は寺務所で受け付けております 尚一万円以上寄進の方は ご芳名を台座に刻彫致します
本山 藻原寺
茂原市 指定史跡 お撃さんの墓
所在地 茂原市 箕輪 421
昭和52年10月22日 指定
明治の文豪徳富蘆花の短編「梅一輪」の主人公お馨さんの本名は石倉よしである。 よしは明治20年箕輪に生まれ、郷里の小学校卒業後上京し津田塾に学んだ。 そのころ蘆花夫妻の知遇を得、また、若い海軍士官 鹿子木員信と相知るようになった。 明治42年、よしは鹿子木の後を追い渡米したが、不幸にも翌年一月末、わずか 数日の闘病で客死した。蘆花はよしの渡米に強く反対した父庄作の説得、ついで よしの死を知らせに、そして最後は葬式にと三度石倉家を訪れた。 この間の経緯は「梅一輪」に詳しい。
箕輪山 妙楽寺