2018年5月12日土曜日

御成街道 船橋~千葉

御成街道 Part 2



御成街道の前半、船橋~鎌池を歩きました。
先週に引き続き、御成街道です。




13:30 JR船橋駅 出発

13:35 西向地蔵


13:49 船橋御殿跡 (船橋東照宮)

一番小さな東照宮だそうです。

13:51 船橋御殿跡

古いお店。

13:52 船橋御殿跡 (稲荷神社)


13:54 御成街道出発地点


13:56 海老川

日本武尊が東征の折、海老川を渡るために船を並べて橋を作ったのが地名の由来と伝わっています。

13:58 意富比(おおい)神社

別名船橋大神宮。
左手が御成街道です。

意富比(おおい)神社 燈明台


14:08 宮坂


14:10 宮坂


14:17 日枝神社前


日枝神社


14:22 東船橋


14:25 東船橋


14:27 中野木


14:30 中野木 地蔵堂


14:35 成田街道入口


成田街道入口


14:38 津田沼


14:42 津田沼

津田沼の街中に御成街道の説明板がありました。

14:43 津田沼


14:47 津田沼


14:52 藤崎

ここから習志野市です。

15:01 藤崎


15:03 藤崎



15:06 藤崎


15:11 藤崎


15:15 大久保


15:19 誉田八幡神社前


誉田八幡神社


15:21 大久保


15:29 実籾(みもみ)


15:33 大原大宮神社


15:45 旧鴇田家住宅

少し寄り道して行きました。
昔は御成街道沿いに建っていたのが移築されたのだそうです。

15:52 実籾

立派な長屋門がありました。

15:56 実籾

このあたり、大きなお屋敷が多いです。

15:56 実籾


16:00 長作

実籾四辻の庚申塔。長作交差点を北西に100mほどの場所にあります。もとは長作交差点付近にあったそうです[3]

16:05 長作


16:07 長作


16:12 天戸


16:18 天戸

正面に見えるのが椎の古木です。

16:20 長作新田

椎の古木。
この古木は、街道を造成するとき、昼は白旗、夜は提灯を掲げて目印にしたといわれています[3]

16:22 稲荷神社

椎の古木のわき道を南に100mほどの場所にあります。

稲荷神社 庚申塔


16:28 天戸

再び御成街道に。

16:30 天戸


16:30 天戸大橋

橋のたもとに小さな祠がありました。

天戸大橋


天戸大橋

花見川にかかっています。

16:36 広尾


16:39 広尾


16:41 広尾


16:45 犢橋(こてはし)


16:46 犢橋


16:47 犢橋


16:48 犢橋 

まっすぐだった御成街道が、犢橋で屈曲しています。
両方からの工事が食い違い、双方譲らなかったためだそうです[3]
ここかと思いましたが違ったようです。

16:51 犢橋 馬頭観世音

向かって左側が現御成街道。右側の小路が屈曲していた御成街道だそうです[3]
ここで合流します。

 


16:52 犢橋


16:54 犢橋


16:58 犢橋

下を東関東自動車道が通っています。
ここに、向山一里塚があったそうです[3]

17:02 犢橋


17:06 長沼

長沼の地蔵。

17:10 駒形観音堂

駒形大仏。

17:17 長沼


17:20 長沼

庚申塔

17:21 長沼


17:22 長沼

如意輪観音

17:27 山王 御成街道消滅地点

このあたりで、道は緩やかに左にカーブしていて、御成街道からそれていきます。
消滅地点は定かでありません。
工場と自衛隊駐屯地があって、御成街道は鎌池まで中断しています。

18:05 都賀 みどりの湯 到着

 温泉につかって帰りました。

19:25頃 鎌池バス停 

 千葉内陸バスに乗って千葉駅に出て帰りました。




説明板:

船橋御殿跡の説明板
市指定文化財(史跡) 「船橋御殿跡と東照宮」
1965年(昭和40)3月17日指定
徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の「お茶屋」又は「御殿」とよばれる休憩所や宿泊所を建てさせた。慶長19年(1614)家康は上総土気、東金で狩猟を行なったが、船橋御殿の建造もその頃であろうと推定される。家康は元和元年(1615)11月ここに宿泊した。家康の宿泊はこの一回だけであったが、秀忠はその後狩猟のたびに立ち寄ったと考えられる。将軍家の東金狩猟が寛永7年(1630)頃に終止した後も船橋御殿は存続していたが、寛文末年頃(1670年代)に廃止となったようである。船橋御殿の面積は約404アールで、海老川西側の土手に囲まれた地域であった。その後、この地は大神宮宮司の富氏に与えられ、開墾されて畑地となった。
 東照宮は富氏が建立したもので、この場所が御殿の中心であった場所であると伝えられている。
1992年3月 船橋市教育委員会

成田街道入口の説明板
「御成街道(東金街道)について」
御成街道(東金街道)は、慶長18年(1613)12月徳川家康の命を受けた佐倉藩主土井利勝が三日三晩で造成したと伝えられています。
 家康の東金への鷹狩等のために作られたとも言われ、船橋から東全まではぼ直線で結ばれています。徳川家康・秀忠・家光が御成街道を通り東金周辺で鷹狩等を催しました。将軍や大御所がお通りになる=お成リになると言うのでお成り街道と呼ばれたと言います。
(前原西1丁目)は成田街道と東金街道との分岐点です。明治12年(1879)に成田山の信徒と地元前原の有志が建てた道標があり、前面には「右成田山道」と刻まれています。また右側面は「成田山 従是房総街道」、左側面には「成田山道」と刻まれています。
江戸時代、主要な街道などには、一里ごとに一里塚をおいて松などの木を植え旅人の目印としていましたが、船橋を過ぎると一里塚は次の様におかれていました。
①一里塚  習志野市実籾
②向山   千素市花見区犢橋
③焼塚   千素市若葉区若松町
④提灯塚  千素市若葉区千城台東
⑤椎の古木 千素市若葉区豊田町
⑥一里塚  八街市上砂
⑦殿山   東金市黒田
 一里塚  東金市油井

藤崎の説明板
「東金御成街道」
東金街道は、徳川家康が上総国東金(現東金市)での鷹狩りに向かうための通行路として造られたと言われ、御成街道とも呼ばれます。船橋を起点として、市内の藤崎・大久保新田・実籾(みもみ)を通り、犢橋(こてはし)・金親(かねおや)・小間子牧(おまごまき)を経て東金に至る約37キロメートルの道です。
慶長十八年(1613)12月、家康は翌年正月に東金で鷹狩りを行うため、佐倉藩主土井利勝に東金までの新道築造を命じ、沿道の村に工事が割り振られ、「提灯街道」「一夜街道」の別名があるように、昼夜兼行の工事でごく短期間のうちに完成させたと伝えられています。ただし、家康がこの道を初めて使ったのは元和元年(1615)11月ですので実際の完成は、この頃だったと考えられます。
 この道は鷹狩りのためだけでなく、政治的・軍事的な理由から造られたという説があり、また、家康の鷹狩りには軍事訓練・周辺諸大名の牽制・権威の誇示・庶民の視察などの目的もあったと言われています。徳川秀忠も鷹狩りのためにこの道を何回か通行しましたが、寛永7年(1630)を最後に東金での鷹狩りは行われなくなり、この道は役人の通行路・民間の物資輸送路・庶民の生活道となり、大部分は今日も道路として使われています。
 なお、ここから南東100メートルほどの位置に一部が残る藤崎古道は、東金(御成)街道以前の道の名残りであると伝えられています。
平成21年3月 習志野市教育委員会

「大宮大原神社縁起」
この神社は、伊勢神宮御祭神の天照大御神の親 イザナギ大宮父 イザナミ大原母 の二神が祀られている。天治元年(1124)実籾本郷に創立され、門前を通じる徳川家康公のお成街道完成と共に現在の場所に遷座されたのが、文禄元年(1592)である。
御祭神が男女二柱の為、遠い昔から縁結の神として広く知られている。
以下略。

椎の木の説明板
「御成街道と古木”椎ノ木”」
所在地:千葉市花見川区天戸町756-2
御成街道は、船橋御殿から東金御殿までの10里15町(約37km)、道幅3間(約5.5m)のほぼ一直線の道路で、徳川家康の東金への鷹狩り(慶長19年正月)にあたリ、佐倉薄主土井利勝が沿線の村々に工事区間を分担して昼夜兼行で造らせたので、別名「一夜街道」とか「提灯街道」などと呼ばれています。
 ここには街道に面して、樹齢が相当経った古木”椎ノ木”の根元近くに”六十六部供養塔”、天明7年(1787)が建っています。これは、巡礼(六部)行脚の供養碑で、天戸村の人々の心を伝える貴重な文化遺産です。また、ここから東金方向へ200m程行った左側の花島観音入ロに建っている供養塔とともに大切にしてください。
平成4年3月 千葉市教育委員会

駒形大仏の説明板
千葉市指定有形文化財 「長沼の駒形大仏」
指定日 1974(昭和49)年9月27日
長沼町はもと、長沼新田と呼ばれ、寛文12年(1672)に江戸の町人4人によって出された開発願いが許可されて成立した新田村であった。駒形観音堂は、元禄16年(1703)の大仏開眼入仏に際し、大巌寺16世本蓮社然誉上人沢春大和尚が馬頭観音を本尊として開基した。
 駒形大仏は像高約2.4mを測り、腹前で定印を結ぶ如来形坐像で、掌上に持物をのせていた痕跡がある。頭部は割込型鋳造で、体部は別鋳した各部を接合して造っている。衣文の膝上より背面一帯に、尊像の造立に浄財を寄附した60ケ村の念仏講中名が刻まれ、また刻銘により元禄16年鋳物大工橋本伊左衛門藤原重広の作であることが知られている。もとは今の堂より西南にある駒形千軒に安置されていたが、元文4年(1739) 3月に移座し、その際の損所を修復した記録が、向かって右膝に刻まれている。江戸時代の大規模鋳銅像として有数の像である。
千葉市教育委員会

旧鴇田家住宅のパンフレット
旧鴇田家住宅の概要
平成17年(2005)3月29日 千葉県指定有形文化財指定
旧鴇田家住宅は、享保12年(1727)から翌13年にかけて東金(御成)街道沿いに建築され、江戸時代に実籾村の名主をつとめた鴇田家の住居として、平成3年(1991)まで使用されてていました。平成12年10月にほぼ建築当初の姿で移築復原され、同年11月に開館しました。
 L字型に曲がった主屋は、かつて東北地方に多く分布していた「曲屋」であり、南関束ではきわめて珍しい建築様式です。また、この住宅は、身分の高い人が来訪した時に使う「ゲンカン(玄関)」や、その供の者が待機した「トモマチべヤ(供待ち部屋)」、江戸時代の民家としては貴重な客便所など、名主の家にふさわしい特色を伝えています。
 「ドマ(土間)」では民具を展示し、午前中はカマドで火を焚いておリます。主庭「上宿庭」では、水琴窟が奏でる安らぎの音色と、四季を彩るイロハモミジやロウバイ、サンシュユなどの植物をお楽しみいただけます。
※天候により、カマドで火を焚かない日があります。


参考: