2018年5月4日金曜日

御成街道 千葉~東金

御成街道 Part 1



御成街道の後半、鎌池~東金を歩きました。

御成街道は、船橋御殿から東金御殿までの10里15町(約37km)、道幅3間(約5.5m)のほぼ一直線の道路で、慶長18年(1613)徳川家康が東金への鷹狩を第一の目的に、佐倉藩主土井利勝に命じて造らせたものです。
家康の命令を受けた利勝は、沿線96ケ村の名主を召集して村ごとに工事区間を分担させて昼夜兼行で造ったので別名「一夜街道」とか「提灯街道」と呼ばれています。






8:15 都賀駅 出発


8:35 鎌池

工場と陸上自衛隊下志津駐屯地に阻まれて消滅した御成街道はここからまた再開します。

鎌池

またまっすぐな道が続いています。

鎌池


8:40 焼塚付近


焼塚

一里塚です。

8:45 若松町


8:50 若松町


8:57 若松町


9:03 若松町


9:10 小倉町


小倉町

公園に木々が残っています。
昔はこのような林を抜ける街道だったのでしょう。

9:19 小倉町


9:23 鷹の台


9:28 鷹の台


9:30 千城台


9:36 千城台

先に下総の鼻付き坂の下り坂が見えています。

9:38 下総の鼻付き坂

このあたり、すこしきついアップダウンが続きます。
昔はこんな風景だったのでしょうか。

右手は御成公園です。

9:42 下総の鼻付き坂


9:44 提灯塚(一里塚)

この塚は、起伏のある下総台地の高所につくられており、道すじをきめるのにあかりをともし直線を定めたといわれています。(提灯塚説明板より)

提灯塚前

ここできついアップダウンは終わります。

9:46 金親(かねおや)町

左側の細い道が御成街道です。

9:48 金親町


金親町

立派な長屋門のあるお屋敷が2軒ならんでありました。

9:52 金親町


9:56 金親町


10:00 金光院

この山門は御茶屋御殿の裏門を移築したものであると伝えられています[2]

金光院

家康が東金への鷹狩の際に立ち寄ったと伝えられています。(金親町大宮神社前説明板より)

10:07 金親町


10:10 御殿入口

右側の狭い道が御成街道です。

御殿入口

狭い道はすぐに途切れてしまいます。
向こう側に見える広い道が御成街道の続きです。

10:15 御茶屋御殿跡

徳川家康が東金への鷹狩りのために休息所として造営したものです。(御茶屋御殿跡説明板より)

土塁と空堀に囲まれています。
ここは南側の入口です。

御茶屋御殿跡

空堀の跡です。

御茶屋御殿跡

土塁に囲まれた内側はかなり広い敷地です。
今は何も建っていません。

御茶屋御殿跡前


10:30 御殿

ものすごい砂埃でした!

御殿

「御殿」の標識がある立派な?交差点。

10:34 御殿


10:38 中田


10:40 中田

このあたり、直線道路ではなくなります。
おそらく、右に下って行く道が御成街道でしょう。

10:43 中田

畑を抜けて行きます。

中田

向こうの坂を下りて行きます。

中田町

右にカーブした下り坂です。

10:50 中田町

坂を下りるとまたまっすぐな道が続いています。

10:57 中田

前の写真の突き当りの坂の上から撮った写真です。

11:00 富田




11:07 富田

前の写真で見える坂の上で撮った写真です。
左手に長屋門のある立派なお屋敷がありました。

この先右手が一里塚らしいです[3]

11:13 乳牛育成牧場前

前の写真の奥の坂の上で撮った写真です。

乳牛育成牧場

防疫の関係上立ち入り禁止になっていて、富田都市農業交流センターへはぐるっと遠回りして行きました。

富田都市農業交流センター

ネモフィラが満開でした。
芝桜は終わっていましたが、2016年に来た時よりは復活していた感じでした。

富田都市農業交流センター

ポピーも咲いていました。

11:45 おなりみるく工房

牛乳を買って飲みました。

11:52 富田町


11:58 富田町


12:01 富田町

突き当りが御成街道消滅地点です。
そこから先は、風景谷(ふがさく)の険と呼ばれる急勾配の坂で、家康は手前で駕籠から降り、馬に乗り換えて登ったと伝えられています[3]

風景谷(ふがさく) 御成街道消滅地点

藪の中にかすかに風景谷(ふがさく)の 旧道の痕跡が見えます。
ここで一旦御成街道は消滅して、現在の道は左に大きくカーブしています。

風景谷(ふがさく) 御成街道消滅地点

曲がり角の車道の端に案内板が設置してあります。
高いところにあるので見ようとして下がると車道にはみ出してしまい危険です。

12:10 沖 風景谷(ふがさく)

沖地区の畑の端に風景谷(ふがさく)の 旧道跡が残っています。

12:12 沖

畑の向こう側中央あたりが旧道跡です。

12:17 沖

珍しく旧道が残っている場所です。
説明板が立っています。

このお宅の玄関先の道は道路と斜めに接しています。
御成街道の跡だということです[3]

12:33 沖

御成街道の標識はありますが、痕跡も見当たりません。

12:36 沖

このあたり、まっすぐな道がたくさんありますが、御成街道とは方向が違っています。

12:46 沖 御成街道再開地点

突き当りから右に向かって御成街道が再開しています。

沖 御成街道再開地点

またまっすぐな道が続いています。
ここからは蛇田谷(へびたさく)の険(けん)と呼ばれる下り坂です[3]

12:48 沖

アップダウンがあります。

12:50 沖


12:54 上砂(かみいさご)

前方右手が野馬土手跡だそうです[3]

12:56 上砂(かみいさご)


12:58 上砂(かみいさご)


13:00 上砂(かみいさご)

馬渡しの険(まわたしのけん)と呼ばれる下り坂[3]
右手が上砂の一里塚です。

上砂の一里塚



上砂の一里塚


13:05 上砂(かみいさご)


13:08 滝台

前方に左右に並ぶ木々は野馬土手跡だということです[3]

13:14 滝台


13:17 滝台

この坂の下にビンダライの池があります。

13:20 ビンダライの池前

右手にビンダライの池があります。

家康が池の水をビンダライに入れ、髪の乱れを整えたのが名前の由来とのこと[3]

滝台


滝台


13:25 滝台


滝台

東金自動車道の高架をくぐります。

13:30 滝台


13:32 滝台

正面(右側)の道を行きました。

滝台


13:36 滝台


13:38 滝台

行き止まりです。
草むらの土手を駆け上り国道409号に出ました。

国道409号 合流点

左手の道から来ました。

国道409号 合流点

東金方面に向かって歩きました。

13:52 油井(ゆい)

前方が御成表道と御成裏道の分岐です。

御成表道と御成裏道の分岐

左手の車道が御成裏道。
右手の細い道が御成表道。

右手の御成表道を行きました。

御成表道と御成裏道の分岐

前の写真を撮った場所から右手を見たところにあります。

御成表道と御成裏道の分岐 道祖神

道しるべにもなっていて、「是より下ヘ向東金道」「是より上ヘ向左倉道」「是より西江戸道」と書かれています[4]

13:56 油井 


13:58 油井

御成表道はまっすぐ続いていたそう[4]ですが、今は柵があるので廻って行きました。

14:02 おあし坂入口前

先ほどの柵の反対側です。
御成表道は正面からまっすぐこちらに向かって続いていたはずです。

おあし坂入口

前の写真の反対側にあります。

おあし坂

急な傾斜なので、大足で歩かなければならないところから名が付いたといわれています[4]

14:11 おあし坂下

土橋になっています[4]
谷間を土手で埋めて高低をなくしたものです。

14:16 油井一本松跡

御成表道側の一里塚跡です。
今は一本松も一里塚も残っていません。

御成裏道には別の一里塚があったそうです。



14:27 十六石殿(じゅうろっこくどん)

家康が東金御殿に向かう途中、お茶の接待をしたので、帰りがけにお礼として、水田十六石を頂いたのが屋号の起こりだそうです[4]

このあたりの田圃ではないでしょうか?

14:40 台方


14:54 御成橋

今は小さな石碑以外何も残っていません。

14:54 東金御殿表門跡

右隅に「東金御殿表門跡」と記された小さな石碑が建っています。

15:00 八鶴湖


15:00 東金御殿跡

今は東金高校が建っています。

ここが、ゴールですが、ついでに御成裏道も歩くことにしました。

15:08 日吉神社鳥居

八鶴湖の北岸にあります。
鳥居をくぐって日吉神社を目指しました。

15:11 日吉神社入口

この角を標識に従って右に曲がりました。

15:14 山王坂

雰囲気のある暗い坂道です。
右手に小さな滝がありました。

山王坂

右から登ってきて、左手に登って行きました。

山王坂 道陸神(どうろくじん)



山王坂

この坂を上りきると日吉神社の鳥居前に出ます。

15:19 日吉神社鳥居前


日吉神社

古い立派な杉並木があります。
東金市教育委員会の説明板によると、家康が鷹狩りに来たときに日吉神社を改修させており、その際に植えられたと推察されているそうです。

15:30 八雲神社



15:44 コンレイ坂

漢字では「魂霊坂」で、土地の人は近付くのを恐れたそうですが、今はそんな雰囲気はありません。

15:55 油井

この道をまっすぐ行けば先ほどの御成表道と御成裏道の分岐ですが、ここで引き返しました。

帰りは大豆谷(まめざく)経由道を通ることにしました。

16:12 大豆谷(まめざく)経由道分岐

高架の上の道が御成裏道です。
右手から戻ってきて高架を通り過ぎ左手からぐるっと回ってここに来ました。

ここから先が大豆谷経由道です。

大豆谷

緩やかな下り坂です。

17:00 福俵駅 到着

無人駅です。




説明板:

提灯塚説明板
「史跡 ちょうちん塚」
お成り街道をはさんで向かいあう高さ三米ほどの盛土は「ちょうちん塚」または「一里塚」と呼ばれている。半分ほと削られてしまったのが、惜しいが慶長19年(西暦1614)徳川家康の命令で、佐倉藩主、土井利勝が没道の村人を動員して船橋から東金まで約38粁米の直線を、三日三晩で造ったと伝承される。
この道は、別名「一夜街道」というが、家康の強大な権カぶりがしのばれます。
この塚は、起伏のある下総台地の高所につくられており、道すじをきめるのにあかりをともし直線を定めたといわれる。なお、この地点より約一里(四粁米ほと)東金がりの富田町に「一里塚」とよばれる盛土と椎木の古木が現存するのをみると道のリを示す役目を果したかも知れない。
 将軍のお成りは、家康2回、秀忠8回、家光1回の計11回が「徳川実紀」に記録されている。
   干葉市立 千城台南中学校 郷土秘究クラプ

金親町大宮神社前説明板
「御成街道」
御成街道は、船橋御殿から東金御殿までの10里15町(約37km)、道幅3間(約5.5m)のほぼ一直線の道路で、慶長18年(1613)徳川家康が東金への鷹狩を第一の目的に、佐倉藩主土井利勝に命じて造らせたものである。家康の命令を受けた利勝は、沿線96ケ村の名主を召集して村ごとに工事区間を分担させて昼夜兼行で造ったので別名「一夜街道」とか「提灯街道」と呼ばれている。街道沿線には、ここ大宮神社から船橋方向へ約500mのところに、直線工事を見通すために造った提灯塚や、ここから東金方向へ約300mの左側の奥まった所に金光院という正応2年(1289)に創建したと伝える薬師如莱を本尊とする真言宗豊山派の名刹があり、家康が東金への鷹狩の際に立ち寄ったと伝えられている。金光院から東金方向へ更に約700m行ったところを左に入ると将軍家の宿泊所兼休息所に使用した御茶屋御殿跡かある。
   平成2年3月 千葉市教育委員会

金光院説明板
「千葉市文化財 両界曼荼羅」
金光院は正応2年(1289)貞成上人によって金親町小字中原の台地に創建されたが、天文20年(1551)火災のため焼失したので、千葉家の重臣原式部大夫胤清(北小弓城主)が山林20数町歩を寄進して現在地に再建されたと伝えられている真言宗豊山派の名刹である。
 当院の所蔵する曼荼羅は金剛界と胎蔵界のニ幅に分かれ、ともに幅1.0m、長さ1.54mで麻か絹に描か
れていて、寺創建時からのものとみられている。曼荼羅は大日経及び金剛頂経の教えによる悟の境地に達する仏教の宇宙観を絵画に表わしたもので、胎蔵界は胎児が母胎の中で育くまれ成長して行くがごとく、人が菩提心にめざめ悟に導びかれて行く姿を展開し、金剛界は人の心に宿す仏心を自覚させ、即身成仏の道を示している。胎蔵界受茶羅にはおよそ414尊を、金剛界には1461尊をそれぞれ鉄線描に精緻な切金文と彩色文を配し、巧みな描法で表現されている。
   平成10年3月 千葉市教育委員会

御茶屋御殿跡説明板
「御茶屋御殿跡」
徳川家康が東金への鷹狩りのために休息所として造営したものです。このような御殿は千葉市のほかに御成街道の起点である船橋に「船橋御殿」、お狩場である東金には「東金御殿」が設営されましたが、寛文年間(1661-72)に取り払われて、その跡地も現在大きく改変されています。この御茶屋御殿もほぼ同じ頃取り払わたものと考えられますが、跡地は良く旧態を止めています。
 御殿跡は一辺約11Omの方形で、周囲に幅約5mの薬研堀の空堀と高さ約2.5mの土塁をめぐらし、南北2ケ所
に出入ロがあって、その内側に桝形土塁が構築されていました。内部の遺構については発掘調査により、主殿と思われる基壇部分のほか、長大な掘立柱建物跡群や井戸跡の他、17世紀中葉の陶器などの遺物も発見されています。
   平成9年3月 千葉市教育委員会

風景谷(ふがさく)の説明板
「御成街道跡」
御成街道は、徳川家康が初代の佐倉城主土井利勝に命じて造らせた街道で、船橋-東金間約40キロメートル余をほぼ一直線に結んでいた。
 現在は殆どが舗装され、旧道の面影を残している部分は八街市沖地区と東金市滝地区のごく一部となってしまった。
 八街市内では、この後ろの山林中に僅かに昔の面影を止める地区があり、市指定文化財(史跡)に指定されている。
 ここから西の四街道方面へ走る街道は御成街道を舗装したもので、陸上自衛隊下志津駐屯地で一部途切れてはいるが、船橋市まで続いている。
平成17年4月 八街市教育委員会 
八街市文化財審議会

沖地区の説明板
「八街市指定文化財(史跡) 御成街道跡」
御成街道は、慶長18年(1613)徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた、船橋-東金間約40kmをほぼ一直線で結ぶ道路であった。
 現在では、その大半が舗装され、また一部農地に変貌して、旧道の面影を残している部分は、ここ八街市沖地区と東金市滝地区のみで、極めて貴重であるため、平成15年2月19日に市指定文化財として指定した。
 発掘調査の結果、台地から谷津に至る斜面部は地山を切り開き、出た土を利用して谷を埋め、版築を施して土橋状に盛り上げて構築されていることが確認された。
 また、当初の道路幅は2~4mであることが判明し、部分的に排水のための溝(暗渠)が
造られていることも確認された。
※御成街道跡は、長い間地元の土地所有者の方々に守り続けられた貴重な文化財です。人が歩くことによって少しずつ遺跡が壊れてしまいますので、むやみに入らないようにしましょう。
平成16年12月20日 八街市教育委員会 
八街市文化財審議会

上砂(かみいさご)の一里塚の説明板
「八街市指定文化財(史跡)御成街道の一里塚」
この塚は、慶長18年(1613)に徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた御成街道の一里塚である。
 一里塚とは、街道沿いに一里ごとに設けられた里程標で、江戸時代には徳川幕府による街道整備政策の一環として全国の主要街道に設置された。塚上には松や榎が植えられ、
寒暑や風雨を避けるための休憩場所にもなった。
 船橋から東金にいたる御成街道には8カ所の一里塚があったとされるが、現存するものは、ここ上砂と千葉市千城台東、富田町の3カ所のみである。
 これらの一里塚は、まっすぐに街道を結ぶための目印として築かれたと考えられており、それぞれの塚の距離は約4.7kmである。
 江戸時代初期に築かれ、ほぼ原形をとどめた状態で現在まで残されているこの一里塚は、江戸時代の交通文化や、徳川幕府の政策を具体的に知る上で極めて貴重な文化財である。
※この一里塚は、土地所有者が長い間守り続けてきな貴重な文化財です。塚に登ると土が崩れてしまいますので、絶対に登らないでください。
平成20年3月 八街市教育委員会 
八街市文化財審議会

滝台の説明板
「御成街道」
御成街道は、慶長18年(1613年)、徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた街道で、近隣九十数ケ村の農民を動員し、昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜を問わず突貫工事で一晩のうちに、または三日三晩で完成したという伝承があり、別名「一夜街道」や「提灯街道」、また家康にちなんで「権現道」などとも呼ばれている。
 この街道は、将軍の鷹狩りのために使用され、家康、秀忠、家光の三代将軍が鷹狩りに興じた記録がある。しかし、単に鷹狩りのための道ではなく、軍事等の政策上の意図があったとも言われている。
 街道は船橋-東金間約40kmをほぼ一直線に結んでいたが、今では大部分が拡幅舗装や耕地整理等により姿を変えたり消滅してしまい、旧街道の面影を残す場所は八街市沖地区(一部市指定史跡)と東金市滝地区の山林の中のみとなってしまった。
 なお、ここから西へ約1kmの場所に「一里塚」が残り、東へ約500mの場所に鷹狩りの一行が池の水で髪の乱れを整えたとの言い伝えのある「びんだらい池」がある。
平成18年1月 八街市教育委員会 
八街市文化財審議会

油井の説明板
「東金御成街道の関係史跡」
<歴史的概要>
 慶長18年12月(1613)、徳川家康から東金辺での「鷹狩り」の命を受けた佐倉城主土井利勝は,船橘から東金までの沿道にある97ケ村の農民を動員し、翌年1月に「道法八里余り」(約37km)の「東金御成街道」を完成させました。
 東金の滝地区からは旧道を利用したといわれ、右図のルートが現在有力となっています。とくに②の所で分岐し、2ルートとなっていますが、本街道に関する資料が南ルート(赤色)に多く残り、本道の可能性が高いと考えられています。また東金では、家康の鷹狩りの際に「文珠組」を組織し、その組織の鳥見役(鷹場を巡検して鳥の所在を追跡する役人)には油井村大豆谷村・台方村の者がみられ多くは元酒井家の家臣であったといわれています。
①古道跡:
この場所は廃道となり山林の中に痕跡が見られますが、散策するには厳しいです。享保7年(1722)の『下総牧図』(東京都世田谷区満願寺蔵)には、この道に沿うように「上総下総国境土手」が油井村入ロまで描かれています。
②道祖神:
道標を兼ね三面に以下の内容が刻まれていますが制作年代は不明です。
(正面)是より下ハ東金道 是より上ハ左(佐)倉道
(右面)油井村 (左面)是より西 江戸道
③おあし坂:
切り通しの道。急な坂道のため、歩幅を広く取り大足で上り下りしなければならないことから、通称「おあし(大足)坂」と呼ばれていた。
この先の谷津田に「土橋」が残っており、当時の街道の面影が感じられます.
④一里塚跡:
数十年前(1970年代か)まで高さ7mほどの塚があり.塚上に一本の黒松が植えられ地元の人たちは「一本松」・「一里塚」とよんでいた。
終点の東金御殿まで約3.9km。
⑤御成表道:
享保7年(1722)の『下総牧図』には「油井村入口〇御成表道」と記載され、御成街道の本道と考えられます。
⑥御成裏道:
享保7年の『下総牧図』には「油井村入口〇御成裏道」と記載されています。
⑦十六石殿:
早野家の屋号。家康が御成りの途中に早野家に立ち寄って休息をとり、その接待のお礼に宅地前の水田十六石をいただいたのが屋号の起こりといわれています。
⑧火正神社:
元禄11年(1698)創建。幕府が出した火事・消防に関する定めに基づき、現在地に火消大明神を建立したのが起こりといわれています。
火伏の神の迦具上(かぐつち)神が祭神。
⑨御成橋:
家康の御成に際し、架け替えられたといわれています。
⑩厳島神社:
石鳥居に元禄3年(1698)9月建立の銘。寛文3年(1626)に日吉神社の隔年の神幸祭に神興の一夜の御旅所と定められています。
⑪日吉神社:
石鳥居に明暦3年(1657)9月建立の銘。中世東金城(鴇ケ嶺城)の鬼門の守護神として重んじたといわれています。「山王宮社」には、家康の参拝に備えて土井利勝が社殿を再興したと記されています。
⑩東金御殿:
東金御成街道の終点。将軍(大御所)の宿泊所で現圧の県立東金高校敷地内。
この御殿は、慶長18年(1613)から翌年にかけて、土井利勝の命により代官嶋田治兵断が工事に当たったといわれています。

おあし坂説明板
「おあし坂(東金御成街道)」
現在地(東金市油井)から後方に上る坂が「おあし坂」といわれている東金御成街道の一部である。この坂は急な傾斜であるため、上り下りともに歩幅を広く取り、大足で歩かなければならないところから、この名が付いたといわれる。
 当時の五街道以外の脇往還は勘定奉行支配の街道で、藩や代官などが管理しており、東金御成街道は家康の通る道として、幕府の道路政策に準じて造成されたと考えられる。「おあし坂」の長さは約200mであるが、道幅について佐倉道は二間~二間半(約4m~5m )、八街市沖地先と滝台の発掘調査報告書によると4m~4.5mとあるので参考になろう。また滝から東金御殿までの東金御成街道は既存の道路を整備したといわれており、家康の御成り以前から生活道路として使用されていたと思われる。
 歴史史料では主に、宝永2年(1705)の『裁許図』(東金市道庭石橋家所蔵)及び享保7年(1722)の「下総牧図』(東京都世田谷区満願寺所蔵)に描かれている。
 東金御成街道に関する今後の研究において、貴重な史料といえよう。
平成27年3月 東金市教育委員会

東金城址の説明板
「東金城址」
東西約700m、南北約500mの規模をもつ、半独立丘稜の山城。東金酒井氏の本城として、天正18年(1590)まで機能していたことが確実である(「関八州諸城之覚書」『毛利家文書』、「豊臣秀吉朱印状」『難波創業録所収文書』)。本城の初見は、「鎌倉大草紙」によると、享徳の乱(1454~82)の初期、美濃より下向した東常縁の家臣浜春利が拠ったとされることである。昭和63年(1988)に行われた発掘では、15世紀末~16世紀前半頃とされる瀬戸美濃系の播鉢の断片が出土している。標高74mの最頂部に主郭を置き、西側に一段低い細長い第二郭を配する。比較的緩傾斜の北側斜面には、腰曲輪や支尾根の堀切、段差などを設け、防御している。また、西端の尾根に大堀切・竪堀(消滅)を入れ、西尾根続きからの侵入を防いでいる。
 遺構もよく残り、本城に関する一級史料もあることから、東金市の歴史を語るうえ
で、貴重な文化財であると言える。
東金市教育委員会指定第50号
平成7年6月7日指定

東金御殿跡説明板
「東金御殿跡」
東金御殿は、徳川家康による「鷹狩り」の命を受けた佐倉城主土井利勝が、慶長18年(1613)から翌年にかけて、東金代官嶋田次兵右衛尉重次以栢(嶋田治兵衛伊伯)を造営に当たらせました。この御殿は、船橋-東金間に造られた御成街道の終着点にあり、東金辺での「鷹狩り」を行う将軍(大御所)の宿泊施設でした。現在、県立東金高等学校が建てられています。
 東金城があった城山の東麗の敷地(約6,700坪)に玄関、広間、坊主部屋、小姓部屋、書院、鉄砲部屋、弓部屋、老中部屋、台所などの部屋、別棟には鷹部屋、長屋、馬屋、大番所などが建てられました(下絵図)。ほぼ中央に家康専用の部屋があったといわれていますが、家康の所在を明確にしない事情もあり、絵図には記されていません。また、,小池の拡張工事も行われ、谷池(御殿前池=八鶴湖)と上池に分けたといわれています。
 寛永7年(1630)の、大御所秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行われなくなり、その後、寛文11年(1671)に東金が幕府直轄地(天領)から福島の板倉藩領となり、御殿は取り壊され、その一部が小西の正法寺(現在の大網白里町)などに移されたとのことです。右絵図と下絵図の大きな違いは、「表御門」と「御裏門」が逆転していることです。元禄4年(1691)の記載がある下絵図の方が当時の状況に近いことから、右絵図は江戸時代後半~明治時代初期と判断されますが、時の経過とともに御殿跡の役割も変わったことがうかがえます。

日吉神社説明板
「日吉神社」
ここ日吉神社は大同2年(807)、天台宗の開祖最澄が布教のために東国を巡錫したとき、奉持して来た近江国(滋賀県)山王神社の分霊を鎮祭したのが始まりという。明治維新までは神仏習合し、山王権現と称したが、明治元年現社名に改められ同6年郷社に列した。
 参道沿いにそびえる樹齢百年の老杉並木(市指定文化財)が、社歴の古さを物語っている。又、神社の夏祭に演ぜられる東金ばやしは、県指定の無形文化財となっている。
環境庁・千葉県

「日吉神社表参道杉並木
日吉神社には、二の鳥居から本殿までの約200mの表参道あり、その両側には、県下でも屈指の三十九本もの大杉が立ち並んでいる。これが、日吉神社表参道の杉並木である。
 杉並木は、本殿を背にして右側には22本、左側には17本の大杉が並び、御神木としてメ縄が結ばれている「夫婦杉」や、やどり木のある杉などがある。樹高は高いもので約40mもあり、樹の幹周りは4m以上のものが多く、最大で目通り5.30mのがあり、樹齢は約400年と推定されている。
『東金町誌』(志賀吾郷編集、1938年)によると元和元年(1615)に徳川家康が東金に鷹狩りに来た際、時の代官高室金兵衛に命じて、日吉神社を改修させていることからこれらの杉はその折に植樹されたものと推察されている。
 江戸時代からの歴史を重ねながら、今でもたくましく根を張り続けているこの杉並木は、全国でも大変珍しく、非常に貴重な文化財といえよう。
平成28年2月 東金市教育委員会


参考:
[1] 百街道一歩の東金御成街道
[2] 東金御成街道2長沼~金親
[3] 東金御成街道3金親~油井
[4] 東金御成街道4油井~東金御殿